6月14日の「芸術の現場から」はSPAC(静岡県舞台芸術センター)の文芸部にいらっしゃる横山義志先生に、「どうすれば舞台芸術で「食って」いけるのか:コロナ禍における芸術活動支援から考える」というテーマでお話をしていただきました。
SPACは静岡市の「舞台芸術公園」のなかに立派な野外劇場「有度」を含む複数の劇場を持ち、また東静岡駅のすぐ隣の「静岡芸術劇場」や、駿府城公園でも公演を行っている静岡県立の劇団・劇場組織です。
コロナ禍における芸術活動支援について受講生にしらべてもらった先生は、それが1)厚労省、2)経産省、3)文化庁の三つの省庁から行われていることを確認し、厚労省のものが主として労働者の「賃金・給与」を対象にし、経産省のものが主として事業での利益を対象にしているのに対し、文化庁のものがそれに加えて「文化芸術活動」への謝礼を対象にしていることに注目します。
アートには、事業や労働とは別種の「謝礼」という収入があるのですけれど、それがどういう性質のものなのかを西洋のアートの歴史を遡って説明されます。
アートは共同体やその宗教儀礼に必要な「技術」として始まったのですが、中世にはギルドを持つ「職人芸」とみなされ、近世にアカデミーが作られることで天才である「自由人」の学芸と見做されるようになりました。また近代に入ると、「市民」として社会での機能が強調されるようになり、二十世紀には「芸術労働者」としての役割が強調されるようになります。そして「自由人」、「自由業」としてのアーティストに相応しいのは、報酬ではなく「謝礼」という言葉だったのでした。
職人芸としてのアートの評価はギルドの他のメンバーが、アカデミー型のアートの評価は有識者が、社会型のアートの評価は受容者が中心になっていました。現代のアートはこの三つの評価がバランスよく得られることによって成り立っていると指摘されたのでした。
ですからアート、あるいはアーティストにはもともと、近代的な経済の枠組みからはみ出すところがあります。実際、演劇を専攻する私立大学の増加は、比較的裕福な階層の出身者が演劇の現場を「食えなくても」続けるという傾向を強めたかもしれないと先生は指摘されました。
舞台芸術、とりわけ演劇では、「ライブ」だけで「食っていく」のはもともと難しいのです。そしてコロナ禍はその困難をさらに深めてゆきます。一回性、ライブ性を重んじる演劇がオンラインというメディアにうまく適合しないことと、コロナ禍での経済格差の拡大により庶民が観劇に使えるお金が減ってきたことです。
そのなかで「舞台芸術」を「続ける」ことはどうやったら可能なのか、コロナ禍で深まった舞台芸術の危機はそれ以前からも存在していました。
舞台芸術は「人件費」が多くを占める芸術です。それを賄う公的資金、民間資金は増やすことができるのか、コストは減らすことができるのか、他に道はあるのか、解決が見出されているわけではありませんが、まさにみんなで考えていきましょう、というのが先生のご講義の結論でした。
簡単な希望や展望を示す、というお話ではなく、舞台芸術に固有の「食っていけなさ」についての歴史的経緯と現状を分かりやすく説明されたご講義でした。
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