私は、美学特講の1と2、美学演習の1と2、美学概論2、あと西洋古典語のA, B, Cを担当しています。特講は2が前期、1が後期というちょっと変な時間割です。それぞれ半期で区切りがつくので、どちらを先にとっても、またどちらかだけでも構わないのですが、順序としては2を先にした方がやや分かりやすいかしら。
今年の授業は、ロバート・ステッカーという人の書いた、「分析美学入門」という本を教科書にして、前期は「自然の美的観賞」と「芸術とは何か」という問題について講義しました。
「芸術とは何か」ということが問題になる、というのも変な気がします。私たちの歴史は素晴らしい芸術作品で溢れており、わざわざそれが「何か」などと問うのはばかげたことに思われるからです。芸術作品がそうでないものから一目瞭然に区別されている限り、私たちは「芸術とは何か」と言う問いを生活のなかで発したりはしません。
しかし、取り分け20世紀の芸術の発展は、私たちが芸術とそうでないものについて、純粋に感覚に頼って区別をすることを不可能にしました。デュシャンはどこにも美しさのかけらもないような日常の既製品を芸術として展示し、レディメイドと呼びました。ウォーホールは洗剤の箱にそっくりの立体作品を作りました。
参考リンク
デュシャン「泉」
ウォーホール 「ブリロ・ボックス」
そうした作品は、単なる悪ふざけ、として片づけてしまったら良かったのかもしれません。でも、レディメイドからもう100年もたち、ウォーホールの洗剤の箱からももう五十年がたちました。それらの作品は、芸術としての地位を確立しただけでなく、一つのジャンルとしても、揺るぎないものになっています。最初は悪ふざけかもしれないと思われていたものは、実は歴史的な必然性に基づいていたのです。
造形芸術に関して、私たちはただもはや芸術を再現や表現としてだけ理解することはできず、美的経験によってだけ理解することもできないのです。ロバート・モリスは「何ら美的価値がないこと」の証明書つきで自分の作品を発表しています。
参考リンク
モリス「連禱」
それでは芸術とは何なのか? これは美学研究者だけの問題ではなく、20世紀以後のアーティストの問題でもありました。美学特講2の後半の部分は、「芸術とは何か」というこの問題に、定義の探求という形で理論的な解決を模索する授業です。
なお、私の授業用のブログでは教科書以外の授業用プリントを公開しています。